『松井拳堂』の達磨求む。
知人の僧侶の方のご依頼です。情報だけでも結構です。ご縁有れば、宜しくお願いします。
松井拳堂: 本名を治郎兵衛と言い 通称を拳、号を拳堂と称し 明治10年11月17日柏原に生まれました 明治21年に柏原崇廣高等小学校を卒業の後 田村竹巌(本名を捨三郎と言って 柏原藩の藩校「崇廣館」の教授だった田村看山の養子) が 柏原に開いた「明新館」と言う漢学塾で漢学を学びます 拳堂の曽祖父も柏原の石田にあった梅本台鏡の開いた心学塾「廣胖舎」で心学を学んだ人物で松井屋治右衛門と言いました拳堂はそんな家風を受け継ぐ家で育ちます 明治30年には 福知山歩兵第二十連隊第5中隊に入り 3年間の兵役の後 新井小学校、前山小学校などで教鞭を執りその後 日本体育会体操学校高等科(現 日本体育大学)に入学し 卒業の後は静岡中学校で教鞭を執りました ところが在職中の明治37年4月に日露戦争が勃発し動員令が降り この召集に応じて従軍します 出征の時 拳堂は病気で食事もできないほど衰弱していたにもかかわらず「 もし軍医に見せたら補充隊に残されてしまう」と言って病を隠し出征されたそうです 凱旋の後は 神戸脇浜小学校、小田原中学校、大阪北浜中学校、神戸第一中学校などで教鞭を執り 大正4年に神戸第一中学校をやめてからは郷里の柏原に戻り 丹波郷土史の研究に没頭し 多くの文人・墨客とも交わり「氷上郡志」「柏町史」などの編纂や「丹波人物志」「丹波史年表」「右剣左筆」「兜山余芳」など多くの書物も著しました また拳堂の描く達磨の絵は趣味人の間でも定評があり 高浜虚子や日置黙仙、犬養毅など 多くの名士たちが喜んで賛を書き入れました 彼が初めて達磨を書いたのは 神戸第一中学校に在職していた時に 生徒から依頼されて扇子に達磨の絵を書いたのが始まりだそうです やがて これら多くの功績が認められて昭和35年には兵庫県文化賞を受賞され 昭和45年3月8日 94歳で亡くなりました
2016年02月12日(金)